園内に残る史跡

 蒙古の碑・正安の碑

 蒙古の碑は1287年(弘安10年)に陸奥の国司の供養のために建てられたものです。蒙古軍(元軍)が玄界灘に沈んだ弘安4年と同元号であることから,一般に蒙古兵の供養碑と考えられたようです。
 正安(しょうあん)の碑は,1302年(正安4年)に40余人の講衆が,縁者の霊を弔うために建てた供養碑です。
 蒙古の碑は砂岩,正安の碑は粘板岩(石巻の稲井石)を取り寄せて造られています。これらの板碑(いたび)は子供の百日咳を治すのに霊験があると言われ,永く信仰されてきました。仙台城に取り囲まれる以前のこの地は,霊的な場所であったのかも知れません。


 残月亭跡

 残月亭は5代藩主伊達吉村が1710年(宝永7年)に建てた茶室です。御物見亭(おんものみてい)とも呼ばれました。ここには,はじめ初代政宗真筆の「残月亭」の扁額が揚げられていました。この額の風による損壊を恐れた吉村が1714年(正徳4年)につくらせた複製(模刻)は,現在仙台市博物館に保管されています。政宗時代の残月亭の場所および真筆の扁額の所在については,不明です。


現在は樹木が茂って見晴らしが悪くなっていますが,当時は,二の丸一帯を眺望できる場所だったのでしょう。この残月亭に通じる階段は,現在この写真の右奥にありますが,当時は写真真ん中の白い立て札あたりにありました。現在は大きなモミが道を塞ぐように立っています。               

 最上道


 仙台城築城以前,植物園付近は寺池でしいた。当時,寅ノ門あたりから植物園北門付近を経て愛子(あやし)方面に通じる最上古街道がありました。蒙古の碑はその道標でもあったといいます。築城以後は政宗ゆかりの米沢や山形への間道であったようです。寺は,築城の際に城下へと移されました。

 杉並木

         
 1664年(寛文4年)の仙台御城下絵図では,二の丸の西側にスギ林が描かれています。1600年代末(元禄年間)の「肯山公造制木写之略図(こうざんこうぞうせいもくしゃのりゃくず)」でも二の丸の西側から北側にかけてスギ林・杉並木なしいものが描かれています。この一部と考えられる55本のスギが現在も生存しています。スギの大木の列は,蒙古の碑・残月亭から植物園記念館の裏を通り,東北大学図書館のわきまで続いています。この列にあった一本が1966年(昭和41年)8月の落雷により折れ,伐採し樹齢を調べた結果330年の年輪が数えられました。この木のディスク(円盤)はエントランスホールに展示してあります。伊達政宗が死去したころ(1636年)に植えられたもののようです。なお,園内には他に1930~40年代に植えられたスギ林が2ヶ所にあります。


仙台御城下絵図(寛文4年)部分 宮城県図書館蔵
仙台城歴史散策(宮城文化協会)より転載
 堀切
         
 自然の地形(空谷)を利用して,さらに広げたっものです。1856~1859年(安政3~6年)製作の「安政補正改革仙府絵図」には3本の堀切が描かれています。これを現在の地形図にあてはめると,本沢の3本の谷にあたります。堀切は竜ノ口渓谷側まで続いていました。これらは,仙台城の弱点である西側の防備を補ったものでしょう。

 御清水(おすず)
           
 深沢の谷頭付近から湧き出る清水で,仙台城本丸の重要な水源でした。雨水は,青葉山層(礫層)を浸透して自由地下水となります。水は,東に向かって緩やかに傾斜する青葉山層と基盤岩(大年寺層)の境を浸透し,湧き出ています。仙台藩は,この清水を筧(かけい)を用いて城壁の下の水槽まで引き,酉ノ門から監視していました。石積みの水槽は現在も現存しますが,園の外縁部にあるので,園路からはみられません。

   
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